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  • 【第7回】歳月が教えてくれた、本当の「品格」と「笑顔」の魔法

    皆さま、こんにちは。

    ふと鏡を見たとき、目尻に刻まれた皺や、白くなった髪に気づき、過ぎ去った日々の早さに戸惑うことはないでしょうか。 しかし、その一本一本の線は、あなたがこれまで流してきた涙、堪えてきた悲しみ、そして誰かのために奔走した「愛の証」なのです。

    年齢を重ねるということは、決して何かを失っていく過程ではありません。 若い頃には見えなかった、人生の本当の美しさに出逢うための旅なのだと、私は強く感じています。

    闘いの日々を越えて見つけた「静かな品格」

    思えば若い頃は、誰もが不器用に、そして必死に生きていました。 「誰かに認められたい」「負けたくない」「もっと高くへ」。 傷つき、傷つけられながら、背伸びをして生きてきたあの頃の情熱も、決して無駄ではありません。それは生きていくために必要な、切実なエネルギーでした。

    しかし、人生の秋を迎え、ふと立ち止まったとき、私たちは気づくのです。 本当に人の心を揺さぶり、深く尊敬される人とは、決して自分を大きく見せようとする人ではないということに。

    本当の「品格」とは、弱さに対する想像力です。

    • 誰よりも傷ついた経験があるからこそ、他人の痛みに寄り添えること。
    • どんなに理不尽なことがあっても、感情の荒波を静かに呑み込み、穏やかに振る舞えること。
    • 立場の弱い人や、小さきものに対して、決して態度を変えず、温かい眼差しを向けられること。

    高価な宝石を身にまとうことでも、雄弁に知識を語ることでもありません。 泥にまみれ、理不尽に耐え、それでもなお他者を尊重しようとする「日々の誠実な生き様」そのものが、その人の背中から神々しいまでの品格となって滲み出るのです。

    「優しさ」という名の、最も気高い強さ

    そしてもう一つ、私たちが歳月の中から受け取る最高の贈り物が「笑顔」です。

    朝、すれ違う人に柔らかく微笑みかける。 レジの店員さんに、心を込めて「ありがとう」と伝える。 大切な人の、とりとめのない話を、ただただ笑顔で頷きながら聴く。

    それは一見、ささやかな行動に見えるかもしれません。 しかし、いつも機嫌よく、笑顔でい続けることがどれほど難しいことか、人生の荒波を越えてきた皆さまならご存知のはずです。

    体中が痛む朝もあるでしょう。 心が張り裂けそうな悲しみを抱えている日もあるでしょう。 それでも、「自分の痛みを理由に、他人の心を曇らせてはいけない」と一呼吸置き、静かに口角を上げる。

    その笑顔は、決して「楽な人生を送ってきた証」ではありません。 幾多の絶望を乗り越え、自分の機嫌を自分で取り、他者のためにその場を明るく照らそうとする「究極の思いやり」なのです。

    だからこそ、私はこう断言します。 人を批判し、傷つけることは誰にでもできます。しかし、悲しみを知りながら、人を励まし、笑顔にできる人は、この世で最も強い人です。 「優しさ」とは、人生の達人だけが持つ、最も気高い強さなのです。

    当たり前の日常に隠された「奇跡」への感謝

    今日も無事に目が覚めたこと。 温かいお茶を美味しいと感じられること。 「おはよう」と言葉を交わせる人がいること。

    若い頃は「当たり前」と見過ごしていたこれらの光景は、実は奇跡の連続です。 私たちが生きている今日は、昨日、誰かがどうしても生きたかった明日でもあります。

    その事実に気づき、深く頭を垂れて感謝の念を抱くとき、私たちの心から不平不満は静かに消え去り、そこには木漏れ日のような穏やかな光が差し込みます。 その感謝の光こそが、その人だけの美しいオーラとなり、周りの人々の心までをも温かく包み込んでいくのです。

    人生の最終章を、どう生きるか

    私たちがいつか、この人生という舞台から降りる日が来たとき。 最後に心をよぎるのは、どれだけ財産を築いたかでも、どれだけ地位を得たかでもないはずです。

    「不器用だったけれど、自分なりに誠実に、誰かを愛して生きた」 「ほんの少しでも、人に優しくできた」 「たくさんの『ありがとう』をもらい、そして贈ることができた」

    そう静かに微笑みながら振り返ることができる人生こそが、どれほど美しく、尊いものでしょうか。

    失った若さを嘆く必要などありません。 私たちはその代わりに、かけがえのない経験と、深い知恵と、他者を愛し許すための大きな器を手に入れたのですから。

    どうか皆様のこれからの道のりが、穏やかな笑顔と、深い優しさと、溢れるほどの感謝で満たされますように。 その気高い品格が、後に続く若い世代の希望の光となることを、私は心から信じています。

    最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

  • 【第6回】「上手に撮る」より「思い出を残す」――70代から始める一日一枚アルバム

    皆様、こんにちは。大和誠です。 いつも当ブログをお読みいただき、心より感謝申し上げます。「笑顔・優しさ・感謝」を日々の指針としながら、今日もこうして皆様に向けて言葉を紡げることを、大変嬉しく思います。

    最近、私はふと、これからの残りの人生において「自分だけの新しいアルバム」を作っていきたいと強く思うようになりました。

    若い頃、私の手元にはたくさんの写真がありました。家族の笑顔、賑やかな旅行の風景、苦楽を共にした仕事仲間との一枚、そして何気ない日常のひとコマ。分厚いアルバムが十冊ほど、本棚に並んでいました。 しかし、長い時の流れの中で、人生の様々な転機があり、それらの写真はいつしか手元から無くなってしまいました。

    けれども、不思議なものです。写真という形あるものが無くなったからといって、私の心の中から人生の大切な思い出までが消え去ってしまったわけではありませんでした。 楽しかったこと、胸が締め付けられるほど苦しかったこと、飛び上がるほど嬉しかったこと、そして深い悲しみに暮れたこと。そうした数え切れない出来事の記憶は、今も私の心の奥底に、静かに、そして確かに息づいています。

    そのことに気がついた時、私はこう思うようになりました。 「過去の写真が無くなってしまったのなら、嘆くのではなく、これから先の日々をまた新しく記録していけばいいのだ」と。

    人生は、決して過去だけでできているのではありません。今日という新しい一日も、明日という未知の一日も、これから積み重なっていく大切な「私の人生の一部」です。だからこそ私は、残りの人生の歩みを丁寧に記録しながら、自分だけのアルバムをもう一度、ゼロから作っていこうと決心したのです。

    高価なカメラは必要ない。今の相棒で十分です

    私が現在愛用しているのは、Xiaomi Redmi 12C(HyperOS)というAndroidのスマートフォンです。 決して数十万円もするような高価な最新機種ではありません。昨今では、プロ顔負けの高級スマートフォンや、本格的な一眼レフカメラを趣味にされている同世代の方もたくさんいらっしゃいます。 もちろん、そうした素晴らしい機材を使えば、息を呑むほど美しく鮮明な作品が撮れることでしょう。

    しかし、私にとって最も大切なのは、写真の「芸術的な出来栄え」ではありません。

    「その時の自分が、何を見たのか」 「その時の自分が、何を感じたのか」 「その時の空気の冷たさや、季節の匂いはどうだったか」

    そうした、目には見えない感覚を記録として残していくことなのです。 私のRedmi 12Cには、約五千万画素というメインカメラが搭載されています。日常のささやかな記録を残すには、これでも十分すぎるほどの素晴らしい性能です。高価な機材が無くても、人生を豊かに記録することは十分に可能です。大切なのは、どんなカメラを持っているかではなく、「どのような思いで、その瞬間のシャッターを押すか」なのだと私は思っています。

    「上手に撮る」ことよりも「思い出を残す」こと

    私は写真の専門家ではありませんし、カメラの専門知識もそれほど持ち合わせていません。 だからこそ、「誰に見せても恥ずかしくない、上手な写真を撮らなければならない」という重圧からは無縁です。

    少し手がブレてしまってもいい。 構図が少しくらい右に傾いていてもいい。 明るさが足りず、少し薄暗い写真になってもいい。 完璧な写真でなくても、全く構わないのです。

    なぜなら、私が撮る写真は「誰かに評価されるための作品」ではなく、「自分の人生を愛しむための記録」だからです。

    十年後、あるいは二十年後にその写真を見返した時、 「ああ、あの日はこんなに気持ちの良い晴天だったな」 「この頃は、毎朝早く起きて元気に歩いていたな」 「こんな素朴で美味しいものを食べていたな」 そんなささやかな記憶の糸をたぐり寄せることができれば、それだけで写真としての役割は十分に果たしているのです。

    写真の本当の価値は、シャッターを切ったその瞬間には分からないことが多いものです。しかし、年月が静かに降り積もるほどに、かつて撮った不格好な一枚の写真が持つ意味は、計り知れないほど大きくなっていくように感じています。

    特別な出来事よりも、愛おしい「普段の暮らし」を

    豪華な海外旅行や、何か特別な大きなイベントの時だけカメラを構えたいとは、私は思いません。むしろ、何気ない、当たり前の日常こそを、しっかりと残しておきたいと強く願っています。

    春になれば、近所の並木道に咲き誇る薄紅色の桜。 いつもの散歩道でふと足を止めたくなる、季節を知らせる名もなき花々。 午前四時過ぎ、まだ誰も起きていない静寂の中で見上げる、荘厳な朝焼けの空。 一日が無事に終わることを告げる、穏やかで優しい夕焼け。 毎日欠かさずいただく、温かい食事。 長年私の腕に寄り添い、時を刻み続けている愛用の腕時計。 自宅の庭の木々の移ろいや、住み慣れた部屋の風景。 そして何より、長男や二男と一緒に過ごした、心穏やかでかけがえのない時間。

    私が毎日書き綴っている「感謝の日記帳」と同じように、カメラを向けることで、こうした日常への感謝が自然と湧いてきます。

    若い頃には、こうした当たり前の日常が「特別なもの」だとは夢にも思いませんでした。しかし、年齢を重ねて人生の機微を知るにつれて、何事もなく平穏に過ごせる一日が、どれほど有り難く、奇跡のようなものなのかを深く噛み締めるようになりました。

    平凡な毎日。変わり映えのしない、静かな日常。 それこそが、実は「人生そのもの」なのだと思います。

    Redmi 12Cで失敗しないための、5つの簡単な工夫

    専門家ではない私ですが、普段の生活の中でスマートフォンを向けるうち、「これだけ意識しておけば、後で見てがっかりすることが少ない」という小さなコツを見つけました。同世代でスマホ写真に挑戦される方の参考になれば幸いです。

    1. 太陽を背にして撮る(光を味方にする) 花や風景を撮る時は、できるだけ「太陽を自分の背中側」にして撮るようにしています。太陽に向かって撮る(逆光)と、どうしても被写体が暗く沈んでしまいます。光を正面から優しく受けるようにすると、本来の色が明るく自然に写ります。

    2. ズームに頼らず、自分の足で近づく スマートフォンのズーム機能は便利ですが、引き伸ばすほどにどうしても画質が粗くなりがちです。そのため、三倍以上のズームは極力使わず、できるだけ「自分の足で一歩、二歩と近づいて」撮るようにしています。少し自分が動くだけで、写真の印象は驚くほど美しく変わります。

    3. 「念のため」の三枚連続撮影 「カシャ、カシャ、カシャ」と、連続して三枚撮っておくのが私流です。人間の目では気づかなくても、後で見ると微妙に手がブレていたり、ピントが甘かったりするものです。三枚撮っておけば、一番綺麗に撮れたお気に入りの一枚を後から選ぶことができ、失敗の確率がぐんと減ります。

    4. 花や料理は、息遣いを感じる距離まで近づく お花や料理の写真を撮る時は、思い切って少し近づいてみます。花であれば三十センチほどの距離まで。料理であれば、立ち上る湯気の温もりが伝わってくるような距離まで。ぐっと近づくことで、そのものの持つ生命力や魅力が、写真から溢れ出してきます。

    5. 夜景モードの隠れた実力を引き出す 暗い場所や夕暮れ時は、カメラアプリの「その他」から「夜景」モードを積極的に選ぶようにしています。この少しの手間で、肉眼では薄暗く沈んで見える景色も、驚くほど明るく、しっとりと綺麗に記録することができます。最新の高級機でなくても、こうした機能を知るだけで十分に楽しめることを実感する瞬間です。

    毎朝四時、私だけの静かな時間

    私は毎朝、午前四時に起床する生活を続けています。 世の中の多くの人々がまだ深い眠りの中にある、静寂の時間です。一歩外に出ると、空気は凛と澄み渡り、心地よい冷たさが頬を撫でます。

    季節によって、夜明けの空が見せる表情は全く異なります。 冬の朝の、ガラスのように冷たく澄み切った空。 春の朝の、すべてを包み込むような柔らかな光。 夏の朝の、生命力に満ち溢れた力強い朝焼け。 秋の朝の、少しの寂愁と透明感を感じさせる空。

    毎日同じように繰り返される朝に見えて、実は「全く同じ朝」など、人生において一度たりともありません。この静かで神聖な時間は、私にとって「また新しい一日が始まる」ことを五感で味わう、何にも代えがたい大切なひとときとなっています。

    「一日一枚アルバム」への挑戦

    こうした思いから、私は「一日一枚アルバム」というささやかな挑戦を始めることにしました。

    ルールはたった一つ。「一日に、最低一枚の写真を残すこと」。それだけです。

    決して無理はしません。頑張りすぎることもしません。体調が優れない日や、どうしても撮れない日があっても、全く構わないと決めています。また翌日、気が向いた時にシャッターを押せばいいのです。英国紳士のように、心に余裕を持って楽しむことが長続きの秘訣です。

    六月十五日 午前四時十五分、息を呑むような朝焼け。 六月十六日 近所の軒先で健気に咲く季節の花。 六月十七日 湯気が立つ、いつもの質素で美味しい朝食。 六月十八日 いつもの散歩道で見つけた、名もなき美しい風景。 六月十九日 手に馴染んだ、お気に入りの湯呑み茶碗。 六月二十日 共に時を刻んできた腕時計。 六月二十一日 一日の終わりを告げる、優しい夕焼け空。

    そんな、日常の小さな小さな「一枚」を、ただ静かに積み重ねていくだけです。 しかし、たった一日一枚であっても、一年続ければ三百六十五枚になります。五年後には約千八百枚。十年後には、なんと約三千六百枚もの膨大な写真になります。 今日という日のたった一枚の積み重ねが、やがて振り返った時、私の生きた証である「壮大な人生の記録」へと姿を変えていくのです。

    十年後、八十歳の自分への贈り物として

    十年後、八十歳を迎えた自分が、温かいお茶でも飲みながら、その写真を一枚一枚ゆっくりと眺める日を想像します。

    「ああ、あの頃は毎朝元気に散歩をしていたな」 「この年の春は、ことのほか桜が見事だったな」 「長男や二男と、こんな穏やかな時間を過ごしていたな」 「派手ではないけれど、毎日を丁寧に、穏やかに生きていたな」

    そんなふうに、過去の自分と対話するように振り返ることができたなら……それは、人間としてこの上なく幸せなことではないでしょうか。

    人生には、拍手喝采を浴びるような華やかな出来事ばかりがあるわけではありません。むしろ、人生のほとんどの時間は、名もなき平凡な日常の連続です。しかし、その平凡な毎日の積み重ねの先にこそ、その人だけの「真の人生」が形作られていくのだと、私は信じています。

    今日という日は、二度と巡ってきません。 過ぎ去った昨日は、決して戻りません。 そして、明日が必ず来るという絶対の保証もありません。

    だからこそ、今日というかけがえのない一日を、全身全霊で大切に生きたい。そして、その証を「一枚の写真」として、そっと残していきたいのです。

    プロのような上手な写真ではなくていい。革張りの立派なアルバムに収められていなくてもいい。一番大切なのは、その一枚一枚の写真の中に、「私が確かにここに存在し、この日常を愛しんで生きてきた」という温かい証が残っていることです。

    私はこれからも、一日一枚。 決して焦らず、無理をせず、ただ静かに、微笑みを浮かべながら思い出を切り取っていこうと思います。

    そして十年後、あるいは二十年後に、完成したそのアルバムのページを開いた時。 「うん、決して悪くない人生だったな」 と、穏やかな気持ちで優しく微笑むことができたなら、それだけで私は、十分に幸せなのだと思っています。

  • 【70歳の食卓】毎日「ちゃんこ鍋」を食べる私が、この温かさで日本を元気づけたい理由

    ブログを始めて5回目となりました。 今日は、パソコンの画面から少し離れて、私の「食卓」についてお話ししようと思います。

    実は私、毎日の夕食のメニューを「ちゃんこ鍋」に固定しています。 「毎日同じお鍋を食べて、飽きないのですか?」と聞かれることもありますが、これが70歳の体と心に、驚くほど深く染み渡るのです。

    正直にお話ししますと、かつての私は自分勝手で自堕落、食事の内容も時間もバラバラという、決して褒められた生活ではありませんでした。しかし、人生の残り時間を意識し、心穏やかに生き直そうと決意したとき、まずは「日々の基本」を整えることの大切さに気づきました。

    規律を重んじる英国の紳士が毎日のティータイムを欠かさないように、私にとっての一日の締めくくりが、この夜のちゃんこ鍋なのです。

    肉や魚から出る深い旨味、くたっと柔らかくなるまで煮込まれたたっぷりの野菜。 熱々のおつゆを一口すすると、群馬の冷たい風で冷えた体が芯から温まり、今日一日の疲れや小さな迷いが、湯気と一緒にスッと空へ溶けていくような気がします。

    今、世の中を見渡してみると、暗いニュースや心がすり減るような出来事が多く、日本全体が少しお疲れ気味のように感じます。若い方々も、私と同世代の方々も、それぞれの場所で、見えない不安や重圧と闘いながら必死に生きています。

    そんな余裕のない時代だからこそ、私は「温かい鍋」が持つ、根源的な力を信じたいのです。

    力士が厳しい稽古のあとにちゃんこ鍋を囲み、心身を大きく強くしていくように、温かくて栄養満点の食事は、人間の底力を静かに呼び覚ましてくれます。特別な高級食材も、見栄えのする盛り付けも必要ありません。ただ、身近な食材を一つの鍋でコトコトと煮込むだけ。その質素で温かい食卓こそが、人が明日へ向かうための最強のパワースポットになるのです。

    私はこれからも、毎日決まった時間にちゃんこ鍋を食べ、心身の軸をブラさずに、このブログを通じて発信を続けていきます。顔も声も出しませんが、私の紡ぐ言葉が、読んでくださる方の心に灯る小さな「炭火」になれば本望です。

    皆さんも、今日一日、本当によく頑張りました。 どうか今夜は、何か温かいものを食べて、ご自身の体と心をたっぷりと労ってあげてください。

  • 70歳、スマホに敗北しかけた日。それでも私は諦めなかった

    はじめに:正直、怖かった

    「スマホにしなよ」

    何度この言葉を聞いたか分かりません。
    そのたびに私は笑ってこう返してきました。

    「いやいや、ガラケーで十分だよ」

    ——本当は違いました。
    分からないものが、怖かっただけです。

    気がつけば、世の中はすっかり変わっていました。
    病院の予約も、役所の手続きも、ポイントカードも——

    「アプリでお願いします」

    その一言で、私は取り残される側の人間になった気がしました。

    70歳。
    今さらかもしれません。

    でも私は思ったのです。

    「このまま終わりたくない」


    立ちはだかった、3つの現実

    意を決してスマートフォンを手にしました。
    しかし、その日から私は何度も打ちのめされることになります。

    ① 指が、言うことを聞かない

    タップ?スワイプ?

    やってみても反応しない。
    強く押せばいいのかと思えば、違う画面に飛ぶ。

    そのたびに焦り、こう思いました。

    「壊したかもしれない…」

    機械に触るだけで、こんなに緊張するとは思いませんでした。


    ② カタカナが、まるで呪文

    アカウント、インストール、Wi-Fi…

    説明を聞いても、頭に入ってきません。

    特に苦しかったのはこれです。

    「アカウントを作成してください」

    ——そもそも、それは何ですか?

    分からないことを分からないまま進める不安。
    それが一番つらかった。


    ③ 最大の敵「パスワード」

    これが一番苦しかった。

    ・英数字を混ぜてください
    ・8文字以上にしてください
    ・他と同じものはダメです

    やっと作ったのに——

    次の日には思い出せない。

    そして起きる悲劇。

    「パスワードを再設定してください」
    → そのためのパスワードが分からない

    私は何度も、画面の前で固まりました。


    正直、何度もやめようと思った

    夜中に間違えて電話をかけてしまったこともあります。
    意味不明なスタンプを送り続けてしまったこともあります。

    ある日、画面が真っ暗になりました。

    私は確信しました。

    「ついに壊した」

    慌てて店に駆け込みました。

    ——ただの充電切れでした。

    恥ずかしさで顔が熱くなりました。


    それでも、やめなかった理由

    そんな私に、小さな奇跡が起きました。

    孫と、ビデオ通話ができたのです。

    画面の中で、孫が笑いました。
    「じいじ!」と呼んでくれました。

    その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなりました。

    私は気づきました。

    これは機械じゃない。人とつながる道具なんだ。


    世界が少し広がった瞬間

    今では、散歩中に花を見つけるとスマホをかざします。

    すると名前が出てくる。
    育て方まで教えてくれる。

    分からない言葉は、声で聞けばいい。

    昔なら諦めていたことが、今はその場で分かる。

    スマホは、私にとって

    **「好奇心を取り戻す道具」**になりました。


    私が決めた、3つの約束

    失敗ばかりの中で、自分なりのルールを作りました。

    ① 完璧を目指さない

    全部できなくていい。
    できることだけでいい。

    それだけで、十分生活は変わります。


    ② 恥を捨てて、頼る

    分からないことは聞く。

    何度でも聞く。

    これが一番の近道でした。


    ③ 手書きをバカにしない

    パスワードはノートに書く。
    操作も書く。

    デジタルのためにアナログを使う。

    これが、私には一番合っています。


    おわりに:あなたへ

    もし、あなたが今こう思っているなら——

    「もう歳だから無理だ」

    その気持ち、痛いほど分かります。

    でも、あえて言わせてください。

    それは、間違いです。

    私でもできました。
    失敗だらけでも、できました。

    大事なのは、才能ではありません。

    「やってみるかどうか」だけです。

    今日、たった一回でもいい。

    画面をタップしてみてください。

    そこから、あなたの新しい人生が始まるかもしれません。


    (追伸:このブログを読んでくれたあなたへ)

    もし「分からない」と思っていることがあれば、
    コメントでも、メモでもいいので書いてみてください。

    分からないことは、恥ではありません。

    挑戦しないことだけが、もったいないのです。

  • 70歳からの再出発。ブログ初心者の私が「これだけは揃えてよかった」と感じる3つの必需品


    1. はじめに(導入)

    ブログを始めて数日。パソコンに向かう時間が少しずつ増えてきました。

    お金に余裕があるわけではないため、道具に大きな出費はできません。
    それでも、「これがあって助かった」と感じるものがいくつかあります。

    今日は、70歳からブログを始めた私が、最低限そろえてよかったと感じている3つの必需品をご紹介します。


    2. 必需品その1:1万円を投じた「WordPressテーマ(yamato)」

    私は無料テーマではなく、あえて有料の「yamato」を選びました。

    正直に言えば、1万円という金額は決して安くはありません。
    しかし、実際に使ってみて感じたのは、「最初に迷わないことの価値」です。

    操作が分かりやすく、最初からデザインが整っているため、
    「どうすれば見やすくなるのか」と悩む時間が減りました。

    ブログ初心者にとって、迷う時間はそのまま「やめてしまう原因」になります。
    そう考えると、この投資は無駄ではなかったと感じています。


    3. 必需品その2:目に優しい作業環境(パソコンと目のケア)

    長時間パソコンに向かうと、どうしても目が疲れます。

    私は現在、Dellのパソコンを使っています。特別なものではありませんが、
    画面の明るさを抑えるなど、目に負担をかけない工夫をしています。

    また、老眼鏡ではなく、近視用のメガネを使用しています。
    以前に眼鏡市場で購入したものですが、これが今の自分には合っているようです。

    70代になると、体への負担がそのまま「続けられるかどうか」に直結します。
    無理をしないこと、疲れをためないこと。これが長く続けるための大事な条件だと感じています。


    4. 必需品その3:集中力を切らさない「お気に入りの一杯」

    作業を続けるうえで、もう一つ大切なのが「気持ちを整えること」です。

    私の場合は、コーヒーや緑茶がその役割を果たしています。
    一息つきながら飲むだけで、気持ちが落ち着き、またパソコンに向かう気力が戻ってきます。

    こうした小さな習慣は、地味ですがとても大切です。
    特別なことではなくても、「自分なりの続け方」を持つことで、無理なく前に進めるようになります。


    5. まとめ

    道具は立派である必要はありません。

    大切なのは、自分に合ったものを選び、無理のない形で続けていくことだと思います。

    70歳からの挑戦は簡単ではありませんが、
    一歩ずつでも積み重ねていけば、必ず何か形になると信じています。

    これからも「yamato」と共に、コツコツと発信を続けていきます。

  • 【70歳の挑戦】年金わずか・貯金ゼロ。自堕落だった私が、残りの人生をブログに賭ける理由

    先日はじめての記事を書き、WordPressという見慣れない画面と格闘しながら、ようやく一つの記事を公開することができました。

    今日は、なぜ私が70歳にもなって、パソコンに向かい、ブログやYouTubeで発信を始めようと思ったのか。その「本当の理由」をお話ししようと思います。

    正直に申し上げます。 私は、生まれてから70歳になる今日まで、自堕落で自分勝手な生き方をしてきました。周囲に迷惑をかけ、人から嫌われるような振る舞いも数え切れないほどしてきました。 その結果が、現在の「年金わずか」「預貯金ゼロ」という厳しい現実です。

    若いうちは「なんとかなる」と高を括っていました。しかし、残りの人生の時間が少なくなってきた今、強烈な後悔と、底知れぬ老後の不安が押し寄せてきたのです。

    「このままでは終われない。残りの人生で、少しでも自分を変えたい。そして、自分の力で生きていくための収入を作りたい。」

    そう決意したときに見つけたのが、ブログとYouTubeでした。 もちろん、70歳からの挑戦は簡単ではありません。顔を出す勇気も、声を出す自信もありません。だからこそ「顔出しなし・声なし」という条件で、文章と画面の文字だけで勝負することに決めました。

    私の過去は決して誇れるものではありません。しかし「70歳からでも、どん底からでも、人は変われるし、新しく稼ぐことができる」。その過程をありのままに発信することで、同じように老後に不安を抱える方の勇気になれるのではないかと考えています。

    日記帳に一人で書いていた反省と感謝を、これからはこのブログに綴っていきます。 今日が、私の本当の「再出発」の日です。不器用な70歳の挑戦を、どうか見守っていただければ幸いです。

  • 70歳から、もう一度まっすぐに生きる。

    私は、これまで長いあいだ、自分勝手で、だらしなく、周りを困らせてばかりの人生を送ってきました。

    今さら取り返しがつかないこともある。そう後悔する日もあります。 ですが、人生は終わるその瞬間まで、やり直しができると信じています。

    これからの私は、ただの日記をノートに書きためるのではなく、ブログとして「外の世界」へ出していくことに決めました。自分の考え、失敗、反省、気づき、そして毎日の小さな工夫を、言葉にして残していきます。

    それは決して、若い人に立派な説教をするためではありません。 他でもない自分自身が、もう一度「まっすぐに生きる」ためです。

    正直にお話しすると、私の年金は十分ではなく、蓄えも多くありません。 だからこそ、これからは「書くこと」と「伝えること」を自分の仕事にしていきたいと考えています。

    このブログやYouTubeを通して、同じように年齢を重ねた方、人生の後半をどう生きるか考えている方に向けて、少しでもお役に立てる内容を発信していきます。

    具体的には、次のようなことを書いていくつもりです。

    • 毎日の暮らしの工夫
    • お金をかけずに続けられる生活の知恵
    • 健康のために気をつけていること
    • 昔の失敗から学んだ教訓
    • 年を取ってからでも人生を立て直せるという実感

    私は完璧な人間ではありません。むしろ、失敗だらけです。 それでも、今日からは「昨日より少しまっすぐに」「少しまじめに」「少しだけ人の役に立つように」生きていきたい。その日々の記録を、このブログに残していきます。

    同じように、今の自分を変えたいと思っている方に届けばうれしいです。 どうぞ、これからよろしくお願いいたします。

    大和 誠