皆様、こんにちは。大和誠です。 いつも当ブログをお読みいただき、心より感謝申し上げます。「笑顔・優しさ・感謝」を日々の指針としながら、今日もこうして皆様に向けて言葉を紡げることを、大変嬉しく思います。
最近、私はふと、これからの残りの人生において「自分だけの新しいアルバム」を作っていきたいと強く思うようになりました。
若い頃、私の手元にはたくさんの写真がありました。家族の笑顔、賑やかな旅行の風景、苦楽を共にした仕事仲間との一枚、そして何気ない日常のひとコマ。分厚いアルバムが十冊ほど、本棚に並んでいました。 しかし、長い時の流れの中で、人生の様々な転機があり、それらの写真はいつしか手元から無くなってしまいました。
けれども、不思議なものです。写真という形あるものが無くなったからといって、私の心の中から人生の大切な思い出までが消え去ってしまったわけではありませんでした。 楽しかったこと、胸が締め付けられるほど苦しかったこと、飛び上がるほど嬉しかったこと、そして深い悲しみに暮れたこと。そうした数え切れない出来事の記憶は、今も私の心の奥底に、静かに、そして確かに息づいています。
そのことに気がついた時、私はこう思うようになりました。 「過去の写真が無くなってしまったのなら、嘆くのではなく、これから先の日々をまた新しく記録していけばいいのだ」と。
人生は、決して過去だけでできているのではありません。今日という新しい一日も、明日という未知の一日も、これから積み重なっていく大切な「私の人生の一部」です。だからこそ私は、残りの人生の歩みを丁寧に記録しながら、自分だけのアルバムをもう一度、ゼロから作っていこうと決心したのです。
高価なカメラは必要ない。今の相棒で十分です
私が現在愛用しているのは、Xiaomi Redmi 12C(HyperOS)というAndroidのスマートフォンです。 決して数十万円もするような高価な最新機種ではありません。昨今では、プロ顔負けの高級スマートフォンや、本格的な一眼レフカメラを趣味にされている同世代の方もたくさんいらっしゃいます。 もちろん、そうした素晴らしい機材を使えば、息を呑むほど美しく鮮明な作品が撮れることでしょう。
しかし、私にとって最も大切なのは、写真の「芸術的な出来栄え」ではありません。
「その時の自分が、何を見たのか」 「その時の自分が、何を感じたのか」 「その時の空気の冷たさや、季節の匂いはどうだったか」
そうした、目には見えない感覚を記録として残していくことなのです。 私のRedmi 12Cには、約五千万画素というメインカメラが搭載されています。日常のささやかな記録を残すには、これでも十分すぎるほどの素晴らしい性能です。高価な機材が無くても、人生を豊かに記録することは十分に可能です。大切なのは、どんなカメラを持っているかではなく、「どのような思いで、その瞬間のシャッターを押すか」なのだと私は思っています。
「上手に撮る」ことよりも「思い出を残す」こと
私は写真の専門家ではありませんし、カメラの専門知識もそれほど持ち合わせていません。 だからこそ、「誰に見せても恥ずかしくない、上手な写真を撮らなければならない」という重圧からは無縁です。
少し手がブレてしまってもいい。 構図が少しくらい右に傾いていてもいい。 明るさが足りず、少し薄暗い写真になってもいい。 完璧な写真でなくても、全く構わないのです。
なぜなら、私が撮る写真は「誰かに評価されるための作品」ではなく、「自分の人生を愛しむための記録」だからです。
十年後、あるいは二十年後にその写真を見返した時、 「ああ、あの日はこんなに気持ちの良い晴天だったな」 「この頃は、毎朝早く起きて元気に歩いていたな」 「こんな素朴で美味しいものを食べていたな」 そんなささやかな記憶の糸をたぐり寄せることができれば、それだけで写真としての役割は十分に果たしているのです。
写真の本当の価値は、シャッターを切ったその瞬間には分からないことが多いものです。しかし、年月が静かに降り積もるほどに、かつて撮った不格好な一枚の写真が持つ意味は、計り知れないほど大きくなっていくように感じています。
特別な出来事よりも、愛おしい「普段の暮らし」を
豪華な海外旅行や、何か特別な大きなイベントの時だけカメラを構えたいとは、私は思いません。むしろ、何気ない、当たり前の日常こそを、しっかりと残しておきたいと強く願っています。
春になれば、近所の並木道に咲き誇る薄紅色の桜。 いつもの散歩道でふと足を止めたくなる、季節を知らせる名もなき花々。 午前四時過ぎ、まだ誰も起きていない静寂の中で見上げる、荘厳な朝焼けの空。 一日が無事に終わることを告げる、穏やかで優しい夕焼け。 毎日欠かさずいただく、温かい食事。 長年私の腕に寄り添い、時を刻み続けている愛用の腕時計。 自宅の庭の木々の移ろいや、住み慣れた部屋の風景。 そして何より、長男や二男と一緒に過ごした、心穏やかでかけがえのない時間。
私が毎日書き綴っている「感謝の日記帳」と同じように、カメラを向けることで、こうした日常への感謝が自然と湧いてきます。
若い頃には、こうした当たり前の日常が「特別なもの」だとは夢にも思いませんでした。しかし、年齢を重ねて人生の機微を知るにつれて、何事もなく平穏に過ごせる一日が、どれほど有り難く、奇跡のようなものなのかを深く噛み締めるようになりました。
平凡な毎日。変わり映えのしない、静かな日常。 それこそが、実は「人生そのもの」なのだと思います。
Redmi 12Cで失敗しないための、5つの簡単な工夫
専門家ではない私ですが、普段の生活の中でスマートフォンを向けるうち、「これだけ意識しておけば、後で見てがっかりすることが少ない」という小さなコツを見つけました。同世代でスマホ写真に挑戦される方の参考になれば幸いです。
1. 太陽を背にして撮る(光を味方にする) 花や風景を撮る時は、できるだけ「太陽を自分の背中側」にして撮るようにしています。太陽に向かって撮る(逆光)と、どうしても被写体が暗く沈んでしまいます。光を正面から優しく受けるようにすると、本来の色が明るく自然に写ります。
2. ズームに頼らず、自分の足で近づく スマートフォンのズーム機能は便利ですが、引き伸ばすほどにどうしても画質が粗くなりがちです。そのため、三倍以上のズームは極力使わず、できるだけ「自分の足で一歩、二歩と近づいて」撮るようにしています。少し自分が動くだけで、写真の印象は驚くほど美しく変わります。
3. 「念のため」の三枚連続撮影 「カシャ、カシャ、カシャ」と、連続して三枚撮っておくのが私流です。人間の目では気づかなくても、後で見ると微妙に手がブレていたり、ピントが甘かったりするものです。三枚撮っておけば、一番綺麗に撮れたお気に入りの一枚を後から選ぶことができ、失敗の確率がぐんと減ります。
4. 花や料理は、息遣いを感じる距離まで近づく お花や料理の写真を撮る時は、思い切って少し近づいてみます。花であれば三十センチほどの距離まで。料理であれば、立ち上る湯気の温もりが伝わってくるような距離まで。ぐっと近づくことで、そのものの持つ生命力や魅力が、写真から溢れ出してきます。
5. 夜景モードの隠れた実力を引き出す 暗い場所や夕暮れ時は、カメラアプリの「その他」から「夜景」モードを積極的に選ぶようにしています。この少しの手間で、肉眼では薄暗く沈んで見える景色も、驚くほど明るく、しっとりと綺麗に記録することができます。最新の高級機でなくても、こうした機能を知るだけで十分に楽しめることを実感する瞬間です。
毎朝四時、私だけの静かな時間
私は毎朝、午前四時に起床する生活を続けています。 世の中の多くの人々がまだ深い眠りの中にある、静寂の時間です。一歩外に出ると、空気は凛と澄み渡り、心地よい冷たさが頬を撫でます。
季節によって、夜明けの空が見せる表情は全く異なります。 冬の朝の、ガラスのように冷たく澄み切った空。 春の朝の、すべてを包み込むような柔らかな光。 夏の朝の、生命力に満ち溢れた力強い朝焼け。 秋の朝の、少しの寂愁と透明感を感じさせる空。
毎日同じように繰り返される朝に見えて、実は「全く同じ朝」など、人生において一度たりともありません。この静かで神聖な時間は、私にとって「また新しい一日が始まる」ことを五感で味わう、何にも代えがたい大切なひとときとなっています。
「一日一枚アルバム」への挑戦
こうした思いから、私は「一日一枚アルバム」というささやかな挑戦を始めることにしました。
ルールはたった一つ。「一日に、最低一枚の写真を残すこと」。それだけです。
決して無理はしません。頑張りすぎることもしません。体調が優れない日や、どうしても撮れない日があっても、全く構わないと決めています。また翌日、気が向いた時にシャッターを押せばいいのです。英国紳士のように、心に余裕を持って楽しむことが長続きの秘訣です。
六月十五日 午前四時十五分、息を呑むような朝焼け。 六月十六日 近所の軒先で健気に咲く季節の花。 六月十七日 湯気が立つ、いつもの質素で美味しい朝食。 六月十八日 いつもの散歩道で見つけた、名もなき美しい風景。 六月十九日 手に馴染んだ、お気に入りの湯呑み茶碗。 六月二十日 共に時を刻んできた腕時計。 六月二十一日 一日の終わりを告げる、優しい夕焼け空。
そんな、日常の小さな小さな「一枚」を、ただ静かに積み重ねていくだけです。 しかし、たった一日一枚であっても、一年続ければ三百六十五枚になります。五年後には約千八百枚。十年後には、なんと約三千六百枚もの膨大な写真になります。 今日という日のたった一枚の積み重ねが、やがて振り返った時、私の生きた証である「壮大な人生の記録」へと姿を変えていくのです。
十年後、八十歳の自分への贈り物として
十年後、八十歳を迎えた自分が、温かいお茶でも飲みながら、その写真を一枚一枚ゆっくりと眺める日を想像します。
「ああ、あの頃は毎朝元気に散歩をしていたな」 「この年の春は、ことのほか桜が見事だったな」 「長男や二男と、こんな穏やかな時間を過ごしていたな」 「派手ではないけれど、毎日を丁寧に、穏やかに生きていたな」
そんなふうに、過去の自分と対話するように振り返ることができたなら……それは、人間としてこの上なく幸せなことではないでしょうか。
人生には、拍手喝采を浴びるような華やかな出来事ばかりがあるわけではありません。むしろ、人生のほとんどの時間は、名もなき平凡な日常の連続です。しかし、その平凡な毎日の積み重ねの先にこそ、その人だけの「真の人生」が形作られていくのだと、私は信じています。
今日という日は、二度と巡ってきません。 過ぎ去った昨日は、決して戻りません。 そして、明日が必ず来るという絶対の保証もありません。
だからこそ、今日というかけがえのない一日を、全身全霊で大切に生きたい。そして、その証を「一枚の写真」として、そっと残していきたいのです。
プロのような上手な写真ではなくていい。革張りの立派なアルバムに収められていなくてもいい。一番大切なのは、その一枚一枚の写真の中に、「私が確かにここに存在し、この日常を愛しんで生きてきた」という温かい証が残っていることです。
私はこれからも、一日一枚。 決して焦らず、無理をせず、ただ静かに、微笑みを浮かべながら思い出を切り取っていこうと思います。
そして十年後、あるいは二十年後に、完成したそのアルバムのページを開いた時。 「うん、決して悪くない人生だったな」 と、穏やかな気持ちで優しく微笑むことができたなら、それだけで私は、十分に幸せなのだと思っています。
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